デュオではなくあくまでもバンドスタイルというこだわり
キリンジは、堀込高樹と泰行の兄弟を中心としたバンドである。
バンドと言ってもほとんど兄弟のプロジェクトみたいなもので、雑誌やWebではよく兄弟デュオという表現がなされる。
しかし、本人たちはデュオという呼称を、あまり好んでいないようで、自分たちはあくまでバンドというスタイルであった。
2人を中心としたプロジェクトであることや、洒脱で大人向きのソフトなロックということで、スティーリー・ダンと比べられることも多かった。
堀込兄弟は埼玉県の坂戸市という東京から小一時間ほどの都市で育ったらしい。
坂戸を知っていると「エイリアンズ」の情景もなんとなく浮かぶというものだが、これは後程。
「スティーリー・ダン/幻想の摩天楼」の記事はこちら↓
キリンジとしか言いようのない楽曲群
キリンジの特徴というと大抵、「おしゃれ」「都会的」「センスがいい」などと形容される。
確かに、和製スティーリー・ダンとでも言いたくなってしまうような洒脱な曲はチョット他のJポップアーティストには見られないものだ。
複雑なコードにポップでセンスのいいメロディーが乗り、そこにユーモラスでシニカルで多義的な解釈を許容する奥深く時にはエロスにあふれた歌詞(特に高樹の詩)が合わさればそれはもう無敵で極上の曲の出来上がりである。
また、サウンドメークも凝っていて、よく聞くと楽器の数もかなり多いのだがそれが決してごてごてすることなく、実に耳に心地の良いサウンドになっている。
これが彼らがセンスがいいと言われるところだろう。
キリンジを今流行りのシティーポップという人もいるが、私はこの意見にはちょっと否定的だ。
確かにセンスが良い大人のポップスであるのだが、シティーポップのようなカラフルな享楽さがキリンジにはない気がする。
なんとなく夏の海や都会のネオンなどはあまりそぐわない、どちらかというと地方都市の路地裏なんかが浮かんでくる。
まあ、シティーポップの定義もあいまいだし、このようなカテゴライズ無意味だろう。
キリンジはお世辞にも売れたバンドだとは言えないかもしれない。
だが、業界や同業者にはファンが多く、いわゆる「ミュージシャンズ・ミュージシャン」であると言えるかもしれない。
しかし、こんな面倒なことを言わなくても、聞いてみれば誰でも彼らの楽曲の虜になるだろう。
捨て曲なしの圧倒的な完成度
1は、カーペンターズを思わせるような爽やかオープニングにふさわしい曲。
ホーンセクションが70’sテイストを出していてシカゴの「サタデー・イン・ザ・パーク」を彷彿とさせるという意見もちらほらみられる
歌詞も街角の風景を切り取ったようでストーリー性がある。
2は、若者たちの乱痴気騒ぎを思わせる曲。
イントロのギターのカッティングがかっこいい。
ここでも、高樹の歌詞は暗喩に満ちていてる。
3回出てくる「遠くまで飛べるるかな?」は恋愛状態にある人間にが感じる、高揚感あるいはある種の全能感のことだろう。
それとの対比で「堕ちる術なら皆心得てる」は失恋のことだろう。
3は6の「エイリアンズ」に並ぶ人気曲で、私もはエイリアンズ」よりもこちらが好みだ。
右チャンネルのアコギと左チャンネルのエレキギターがいいのだ。
途中のギターソロ(ライブでは泰行弾いていた)もアウトロのギターソロ(ライブでは高樹)もともにブルージーで泣かせる。
PVもモノクロのロードムービー風で実にお洒落だがなぜかサルトルの『存在と無』がそこかしこに出てくる。
歌詞も、アルカディア(理想郷)という割には、冬の夕暮れのどこかもの悲しい雰囲気を醸し出している。
キラ星が滲んでいるので何か悲しいことあり泣いているのだろうことが伺える。
それは、「背で見るあの明日が悲しみを彩って見せたら」で再度繰り返されている。
「背で見る」ということは明日に背を向けている、つまり昨日を見ているということだ。
「永遠と刹那のカフェオレ」とは、明日から続く日々と昨日までの悲しみが混ざること、「冬の空を満たす」の部分、「冬の空」は「悲しみに暮れた自分の心」でそれが癒されるということだろう。
実はなんとなく語呂で言葉を選んでいる気がしないでもない。
多くのミュージシャンにカヴァーされる名曲
6は多くのミュージシャンがカバーしている人気曲の「エイリアンズ」だが、歌詞、メロディーともに非常に優れた曲だと思う。
歌詞も様々な解釈を許すような体で、ネット上にも様々な解釈が上がっている。
「性的マイノリティ」を歌ったというものから、「逃亡中の犯罪者」というものまで様々だ。
私は単純に歌詞の内容は、地方都市の夜、眠れない恋人同士の話と考えている。
タイトルになっている「エイリアン」というのは、疎外感を感じているということだが、いったい何からの疎外なのだろう?
私はこの恋人たちは中学生か高校生ではないかと推測している。
公団はかつては「家族」しか入居できなかったはずで、彼らが成人し独身者だった場合、入居できるはずがない。
そこで、後に出てくる閉塞感と合わせて中学生か高校生と推測した。
そうすると、彼らが感じる疎外感は学校の同級生か家族からの疎外感ということになりそうだ。
学校でとクラスメイトともなじめない者同士ということだろう。
また公団という表現はある種の閉塞感を表しているのではないか。
80年代(キリンジの2人が学生だった頃)の公団は所得の上限があったはずで、裕福とは言えない家族が多く住んでいた。
裕福でない家庭がすべて問題を抱えているというつもりはないが、子供にしてみたら将来の希望、例えば進学なども制限されるかもしれない。
これは中高生の力ではどうにもならないことだ。
このようなことが閉塞感につながっているのではないだろうか。
この疎外感と閉塞感から抜け出したいという思いが、「月の裏を夢見て」というフレーズになるのではないか。
これ以上、歌詞への言及は避けるが、やり場のない疎外感と閉塞感を美しく優しいメロディーに乗せているところがこの曲の魅力でもあり、曲自身が孕んでいるある種のねじれでもある。
冒頭で、坂戸市云々といったが、実は私は坂戸市に住んでいたことがある。
坂戸市は埼玉のほぼ中央にあり、特にこれという特徴のないいかにも埼玉の郊外といった街である。
坂戸市には、大きな公団住宅が3つもあり、バイパスはないが国道407号線が通っている。
おそらく曲中の「バイパス」とはこの407(よんまるなな(ジモティーはこう呼ぶ))のことだろう。
80年代、土曜の夜は国道407号は、暴走族が爆音を響かせていた。
平日の夜はトラック以外ほとんど通らない街灯もあまりない静かなたたずまいである。
現代のようにコンビニもそれほどなく、407号沿いは静かなものだった。
唯一あったのが、北部もヤンブーというスナックランド(そばやハンバーガーの自販機があった)位であった。
ゆえに「見える!私にも…が見えるぞ‼」ということなのである。
ちなみに一押しの曲は…
8の「むすんでひらいて」である。
印象的なイントロはスティーリー・ダンの「リキの電話番号」が元ネタである。
さらに言うと、「リキの電話番号」の元ネタがホレス・シルヴァーの「ソング・フォー・マイ・ファーザー」である。
なんともけだるいブルースで、サビがぐるぐる廻るようで眩暈を感じる。
この曲を最初に聞いたときなぜか、『ドグラ・マグラ』の一節「胎児よ 胎児よ なぜ踊る」が脳内に降りてきた。
この酩酊感をともなった歌詞と気怠く繰り返されるサビがそう思わせるのかもしれない。
そのサビもキリンジの曲としてはかなり低い音域で、ダウナー感を増している。
ちょっと不気味な曲だが聞いていると癖になる。
この曲の元ネタはこれ!
さらに、「Rikki Don’t Lose That Number」のイントロの元ネタはこれ!
「Song for My Father」
この他にも、プロレスのヒールを題材にした「悪玉」、兄樹の曲なのに爽やかなラブソング「君の胸に抱かれたい」、70年代のアメリカンポップステイストの「あの世で罰を受けるほど」、キリンジ屈指の難曲「千年紀末に降る雪は」とファン投票で上位に入る曲がこれでもかと詰め込まれている。
メロディー、詩、アレンジとも最高のクオリティで、彼らの魅力がすべて詰まっていると言ってもいい出来だ。
キリンジの中でどれか1枚を選べと言われたら、『ペーパードライヴァーズミュージック』と迷いつつもこちらに軍配を上げる。
このアルバムは彼らの持つ屈折した音楽センスとポピュラリティが絶妙のバランスを保っていると思うからだ。
3枚目で早くも、バンドとして一つの頂点を極めてしまったが、彼らはこの後も良質のポップソングを世に送り出した。
汗だくのおっさん二人のドアップというジャケットに怯んでしまったあなた、食わず嫌いはもったいない!
一皮剝けば、そこには至極の悦楽が待っているのだから。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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