中々ハードなSF活劇の「ハードボイルド・ワンダーランド」と壁に囲まれた静謐な世界で一角獣の頭骨から夢を読む「世界の終わり」。
動と静の物語がどのように繋がっていくのかというのが、物語全体の構成である。
文庫本で上下巻900ページほどあるが登場人物が極端に少ない。
「ハードボイルド・ワンダーランド」
・私/博士の孫娘/博士/図書館の女の子/大男・ちび/レゲエのタクシー運転手
「世界の終わり」
・僕/影/門番/大佐/図書館の女の子/発電所の管理人
この他に、悪のメタファーである「やみくろ」、自由のメタファーである「鳥」、世界の終わりの完璧なシステムの犠牲となる「一角獣」などがいる。
「ハードボイルド・ワンダーランド」は、シャフリングという技術を使い情報を暗号化する「計算士」を生業にする「私」が情報戦争に巻き込まれ、やがて自分の謎に迫るダイナミックな物語である。
「計算士」になるには並外れた自我の堅さが必要とされるが、それでも「私」以外の殆どの「計算士」はいわゆる脳死の状態に陥るという。
この「私」の自我の堅さがもう一つの物語「世界の終わり」の伏線となっている。
いろいろと偏屈な「私」であるが、頑なに自我を守っていたわけではない。
若いころは自分を変えようといろいろと試みたこともある。
それでもことごとく、オールの壊れボートのように元の所へ戻ってきてしまうのだ。
村上春樹のおそらく初期のテーマである「人はなぜ自分以外ではありえないのか」、そしてまた「なぜ他者と分かりあうことが出来ないのか」ということへの絶望感を端的に表しているように思う。
村上春樹の文体は、少し気取って飄々としている。
それをもって軽いとか中身がないなどというのは早計だろう(昔はよく言われていた)。
しかし、村上春樹がこのような表現を選んだのは、おそらく何度も挫折を重ね断念に断念を重ねた末のことだったのだはないかと思う。
何かを選ぶということは、それ以外のものを諦めるということなのだから。
村上の主人公は、基本的にやさしく意図的に誰かを傷つけるようなことがない。
また、自分自身のどうしても譲れないという境界線を持っているが、決してそれを他者に押し付けることがない。
村上の主人公は他者を理解しようとか他者に理解されたいとか決して望まない。
実際は望まないのではなく、諦めているのだ。
よく村上の主人公は受動的な巻き込まれ型だと言われるのはこういったところだろう。
この「私」も博士の好奇心によって仕組まれた回路によってやがて終わりを迎えるのだが、最後には自ら博士を許し、本来の自分の世界に戻っていく。
前作が『羊をめぐる冒険』だったのに対し、今作は『自分をめぐる冒険』なのだ。
一方、「世界の終わり」では何が語られるのだろうか。
私は、一言でいうと村上流の倫理ではないかと思う。
倫理といっても説教臭いものではない。
一見完璧に見える壁の中の世界だが、僕と影は裏にからくりがあることに気づく。
それは、一角獣という弱い立場の犠牲の上に成り立つ、歪んだ世界である。
最後に、たまりから一緒に逃げようという影に僕は、この街を作ったのは自分でこの世界を引き受ける責任があるといい町に残ることを選択する。
これは、「ハードボイルド・ワンダーランド」のテーマである、「自分は自分以外ではあり得ない」ということを言いかえたものである。
「私」が自ら他人を許し全てを肯定しながら消滅したのと同様、「僕」も自分の作った世界=自分自身を引き受ける。
最後に、脱出した影はどこに行くのだろう?
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