荒井由実「中央フリーウェイ」:自分の感情に縛られない新たな女性像【歌詞解説】

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中央フリーウェイ 自分の感情に縛られない新たな女性像
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ユーミンの登場が日本のポピュラー音楽を変えたと、しばしば言われてきた。

それは、今まで日本のポピュラー音楽で使われなかった斬新なコード使いなど、主に作曲面での言及が多かった。

しかし、ユーミンはまた詩の面でも日本のポピュラー音楽を変えてきたといえる。

男性アーティストなら井上陽水が、やはり歌詞において日本のポピュラー音楽に一石を投じてきた。

若者たちが世界の業を背負ってユートピアを目指した重苦しい60年代を乗り越え、「世界なんかよりも個人が大事だぜ」と若者が言い始めたのが70年代だった。

その筆頭が、ユーミンと陽水だと私は思っている。

目次

高速道路をフリーウェイという圧倒的な言葉のセンス

高速道路をフリーウェイという圧倒的な言葉のセンス

何となく田舎にあるコンクリートむき出しの野暮ったい建造物というのが、私が持っている高速道路に対するイメージである。

もともと、高速道路は物流のために作られたものであるし、70年代当時、高速道路をドライブデートに使うという発想はあまりなかったのではないか?

それをたった一言「フリーウェイ」と言いかえることで、あら不思議、そこは、おしゃれな恋人たちのドライブデートコースへと変わってしまう。

このような言い換えは、後に「リバーサイド」や「ウォーターフロント」などといった、”おしゃれ”なネーミングによって、なにか素晴らしいものであると錯覚させるような使い方に変容する。

終には、売春を「援助交際」と言い換えることにより、罪悪感を希薄にするような見事応用例までも見せてくれる。

ちょっと話がそれてしまった。

要は、言い方ひとつで「気分がよく」なることが出来、皆がそれに乗れるということなのだ。

ユーミンは本当に高速ドライブがおしゃれだと思っているわけではないだろう。

ただ、そう言いかえることで「気分のいいフリ」をしているのだ。

後に述べるが、私はこの曲はすれ違いから破局寸前のカップルを女性側から歌ったものだと考えている。

ユーミンは、ここで自分の内面深くに下りていき、自分の奥底にある感情に向き合えば、傷ついてしまうことがわかっている。

中島みゆきだったら、そのすれ違いの原因を延々と探し始めるに違いない。

ユーミンは、それを「気分のいいフリ」をすることで、感情をずらしていくのだ。

八王子で生まれ育ったユーミンが中央高速がどんなものか知らないはずがない。

このように感情をずらすことで、たとえ一つの恋愛が終わっても、いつまでもその恋愛気分に浸っていられるのだ。

おそらくユーミンは、他者の感情に敏感であり、このように男性が離れていく兆候に気づかないはずがない。

ある種の自己欺瞞であるが、ユーミンの歌詞にはこのような欺瞞が溢れている。

ユーミンにとってこの欺瞞は、自分と距離を置き、奥底にある感情に向き合うことで傷つかないようにするための大切な装置なのだ。

中央フリーウェイはドライブ中の曲ではない

中央フリーウェイはドライブ中の曲ではない

以下、一応主人公は女性ということで話を進めていく。

1番を見てみよう。

中央フリーウェイ
調布基地を追い越し 山にむかって行けば
黄昏がフロント・グラスを 染めて広がる

中央フリーウェイ
片手で持つハンドル 片手で肩を抱いて
愛してるって 言ってもきこえない 風が強くて

町の灯が やがてまたたきだす
二人して 流星になったみたい

中央フリーウェイ
右に見える競馬場 左はビール工場
この道は まるで滑走路 夜空に続く

ここだけを読めば、他愛ないリア充男女のドライブデートの風景だが、実はこれは、思い出か空想のデートを歌っている。

その理由は、2番の冒頭で明らかになる。

中央フリーウェイ
初めて会った頃は 毎日ドライブしたのに
このごろはちょっと冷たいね 送りもせずに

歌ネットより引用

そう、「出会った頃は、毎日車で送ってくれたのに、最近は冷たく、送ってくれない」のだ。

倦怠期なのか、男が女に飽きてしまったのか分からないが、いずれにしても女性が思っているほど、男の方は女性のことを気にかけてはいないようだ。

これが、中島みゆきや歌謡曲・演歌なら、こうなった原因を描いていくのだが、さすがユーミン、あっけらかんと「二人して流星になったみたい」というラインに、自分の感情を放つ。

ユーミンの歌詞に出てくる女性は自分の感情にこだわらない。

自分自身とも距離を置き、一歩引いたところから自分を見ている。

だから、絶えず気分のいいフリが出来るのだ。

この女性は、この男性との関係が終わりつつあることに、気づいている。

しかし、その瞬間が来るまでは、空想の世界に浸っていい気分になったっていいじゃないというしたたかさが垣間見える。

ユーミンの歌詞に出てくる非現実な日常には力みがない。

彼女たちは息を吸うように、非現実的な世界にスッと入り込む。

なので、彼女たちは現実の自分に同情をしない。

演歌や歌謡曲の女性たちは、その情念に囚われ自己憐憫に陥ってしまう。

しかし、ユーミンの歌詞の女性たちは、たとえ傷ついたとしても、恋愛気分を引きずりながら(決して未練ではない)次の恋へと進んでいくのだ。

そして、80年代に入り、世の中の流れはさらに早くなり、恋愛も気軽なものに、言ってしまえば軽薄短小なものになっていった。

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”シティーポップ”としてのユーミン

”シティーポップ”としてのユーミン

ユーミンをあまりシティーポップとは言わない気もするが、いわゆる音楽ジャンルとしてのシティーポップではなく、都市の音楽としての”シティーポップ”という意味でこのように表記する。

ユーミンは東京都八王子市の呉服屋の娘として生まれ育った。

非常に裕福かつ「進んだ子」であったようで、中学時代には、かの「キャンティ」に出入りしていたといのだから相当なものだ。

ユーミンが描く都市空間は具体的なものもあるが、多くはその心象風景から生まれた表象・記号的なものである。

どこにでもあるような都市の風景なのだが、実際にはどこにもない。

この辺りは、やはり都市文学と言われた、村上春樹に通じるものがある。

ユーミンにとって都市のおしゃれな景観は、自分たちが気分良くなるための装置にすぎない。

それが抽象的であればあるほど、それを聞いたリスナーは各自思い思いの風景を浮かべることが出来、それを自ら消費していく。

もう一つ、ユーミンの描く女性の多くは中産階級以上の比較的裕福な層である。

流行に敏感で、Hanakoを読み、それなりに男性にモテて、たまに痛い失恋もする。

自分の感情に縋りつくことは最も格好の悪いことで、現実で辛いことがあっても、街の灯がまたたきだせば、二人で流星になることで、現実を忘れることが出来る。

そして(表面上は)軽やかにすぐに次の恋愛に進んでいく。

何となくそんなイメージをもっている。

実際、ユーミン人気を支えたのは、1億層中流と言われた、どちらかというと都会出身の中産階級以上の女性たちだったのだろうと推測できる。

これは、中島みゆきが地方出身者やマイノリティなど、どちらかというと、周縁の人たちだったのとは対照的だ。

曲の中の女性がその都市の表象を消費し「気分がいいフリ」をしているように、ユーミンを聞いていた女性たちはユーミンを消費し「気分がいいフリ」をしていた。

そんな気分がいいフリをしている女性が溢れていたのが80年代という時代だった。

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