去り際の美学~ユーミンと中島みゆき

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去り際の美学
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古より、ライバルとあちこちで言われてきた、ユーミンと中島みゆき。

90年代までは、レコードのセールスだけ見ると、ユーミンの圧勝だが、2000年代に入って逆転したのではと思う。

2000年代に入ってからこれといったヒットのないユーミンに対し、中島みゆきは「地上の星」「銀の龍の背に乗って」と、ミリオンヒットを飛ばした。

歌詞の内容からわかるように、ユーミンは研ぎ澄まされた感性により時代を切り取り、時には次の時代を予言した。

それに対して、中島みゆきの曲は、昔から日本人が持っている、じめっとした情念を歌い上げる。

ただ、それだけにある種の普遍性を持ち、時代を超える力がある。

残念ながら、ユーミンの歌詞はそのような普遍性を持たないというのが私の感想だ。

同時代性と普遍性はある種、二律背反な関係なのだ。

目次

「見返り美人/中島みゆき」

見返り美人/中島みゆき

まず、中島みゆきの「見返り美人」を見てみよう。

止めてくれるかと 背中待ってたわ

靴を拾いながら 少し待ったわ

作詞:中島みゆき

イントロは、ジュディ・オングでも歌いだしそうなくらい重々しい。

中島みゆきも『世情』などと同じく、少し低温寄りの太い声で歌っている。

前段の、真冬の海の情景描写といい、ほとんど演歌か昭和歌謡の世界である。

気が強く、決して自分から男に縋ることはしないが、男への未練を捨てきれない。

我々がイメージする中島みゆきが描く女性像にピッタリくる。

ひと晩泣いたら 女は美人

生まれ変わって 薄情美人

通る他人(ひと)に  しなだれついて

鏡に映る あいつを見るの

作詞:中島みゆき

ここの前半はどういう意味だろう?

これは、女性の願望を描いているのではないだろうか?

つまり、ひと晩泣いたら、生まれ変わったように、男をすっぱり忘れられるような薄情な女になりたいということではないだろうか?

後半部分は、通りすがる男にしなだれかかり、かつての男が妬いてくれないかという前半とは矛盾した願望を歌っている。

これは、次のフレーズで明らかになる。

聞いてくれるかと 噂流したり

気にしてくれるかと わざと荒れたり

作詞:中島みゆき

なんとか別れた男の気を引こうと、他の男と遊んでいるという噂を流したり、荒れてみたりと必死だが、男にとってこういう女性は正直重い。

「見返り美人」は、86年とバブル初期の曲だが、描かれているのはガッツリ昭和半ばの女性なのである。

中島みゆきには、これに似て非なる先例がある。

そう、中島みゆきの代表曲「悪女」である。

マリコの部屋へ 電話をかけて

男と遊んでる芝居 続けてきたけれど

(中略)

女のつけぬ コロンを買って

深夜のサ店の鏡で うなじにつけたなら

夜明けを待って 一番電車

凍えて帰れば わざと捨てゼリフ

「悪女」作詞:中島みゆき

こちらはやっていることは同じでも、男に愛想を尽かされようとふるまう女の話。

まあ、どちらにしても面倒くさい女には違いないのだが…。

いいの いいの 誰でもいいの

あいつでなけりゃ 心は砂漠

作詞:中島みゆき

なぜ、失恋が痛いのかというと、失ってしまう恋人が(少なくともその時は)代替性の聞かない唯一無二の存在だからである。

これは男だろうと女だろうと共通の認識だろう。

恋愛においては、相手以外すべてモブキャラであり、自分を満たしてくれるのは恋人だけなのである。

そして、このことは多かれ少なかれ誰でも経験をしていることだ。

アヴェ・マリアでも 呟きながら

私 別人 変わってあげる

見まごうばかり 変わってあげる

作詞:中島みゆき

ここで注目したいのは「変わってあげる」の「あげる・・・」の部分だ。

「~してあげる」というのは、「誰かのために」ということだ。

では、誰のために?

もちろん、別れた男のためだろう。

要は、「あんたがビックリするぐらい変わってあげるんだから、ヨリを戻しなさいよ」ということなのだ。

寂しがり屋のクセに、意地でも自分からはヨリを戻すと言えない、何とも面倒くさい女性なのだ。

最後にタイトルの「見返り美人」だが、「見返り美人」と聞けば、多くの人が切手にもなった有名な美人画「見返り美人図」を思い浮かべるだろう。

この女性は、あの図の通り「チラリチラリ」と過去に別れた男を伺っているのだ。

そこにJ-Popとは異なる、演歌の世界が立ち上がってくる。

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